森見登美彦『太陽の塔』とアンドレ・ブルトン『ナジャ』について。

以前、mixiにも少し書いたのですが、『太陽の塔』は『ナジャ』に影響を受けていると思われます。
『ナジャ』(引用は白水uブックス版より。ほかに岩波文庫版もあります)には以下の部分があります。

私とは誰か? ここでとくにひとつの諺を信じるなら、要するに私が誰と「つきあっている」かを知りさえすればよい、ということになるはずではないか? 私は認めざるをえないのだが、この「つきまとう」ともとれる言葉には迷いを覚える−−それはある人々と私とのあいだに、おもいもよらなかったほど奇妙な、避けがたい、心惑わすような関係を設けてしまいそうだからだ。

というところから、「水尾さん研究」と称してストーカー行為に及ぶ主人公の姿が、

君は私にとってひとつの謎ではない。

というところから、

私にとって彼女は断じて恋の対象などではなく、私の人生の中で固有の地位を占めた一つの謎ということができた。

という箇所につながると思います。
また、この観察記録文体も影響を受けているのではないでしょうか。

解説によると、フランス語で「私とは誰か?」を意味する"Que suis-je?"は、同時に「私は誰を追っているのか?」を意味するそうで、非常に興味深いです。